化粧櫓内部は、畳が敷かれ貝合わせという昔の遊び様子を再現した人形が、 茨城県水海道市の弘経寺所蔵の千姫姿絵を元に再現されています。
千姫の生涯
徳川2代将軍秀忠の長女に生まれ、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。 大阪落城の際に、坂崎出羽守に救い出されるが、祖父(家康)の約束(助けた者には姫を嫁にやる)に従わず、 美男子と言われた本多忠政の長男(忠刻)に嫁ぎ姫路にきたと伝えられています。
忠刻と千姫の間には、勝姫と幸千代の2人の愛児が生まれるが、 幸千代はわずか3才でなくなり忠刻もすぐに病死してしまいまい、 忠刻と幸千代は、書写山円教寺境内にある本多家の廟所に葬られました。 忠刻に殉じて墓前で切腹した、岩原牛之助・宮本三木之助(宮本武蔵の養子) ・宮田角兵衛(三木之助の家来)も一緒に葬られてる。
もうひとりの愛娘(勝姫)は、鳥取・岡山の城主(池田光政)に嫁ぎました。
ひとり悲しみに暮れる千姫は髪をおろし天樹院と号し、江戸に帰ってしまいました。
また、千姫は愛煙家だったともいわれています。本当かしら?