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池田家(備前) | ||||||
![]() 蝶紋は、正倉院御物の金銀平蝶脱八角鏡や花蝶背円鏡に描かれている文様より始まるといわれている。 蝶は桓武平氏の代表的家紋。岡山藩池田侯の定紋としても有名。 池田家は、清和源氏頼光から4代目の奉政を祖とする(『寛政重修諸家譜』より)、平安時代から続く名家である。 戦国時代、恒利の時に尾張に移り、その子恒興(信輝)が、生母養徳院が織田信長の乳母であった縁で信長に仕え ることとなった。その後、桶狭間で軍功をあげ侍大将となる。 摂津から美濃大垣に移り13万石を領したが、小牧長久手合戦では、徳川軍に敗れ長子之助(ゆきすけ)と戦死。 次子輝政が跡を継ぎ、三河吉田(現・豊橋市)15万2千石を領した。 輝政は、一時は羽柴・豊臣と名乗るほど秀吉の信用を得た。 関ヶ原合戦では東軍の主力となって奮戦、家康の次女督姫を娶ったこともあり※1、 戦後播磨姫路52万石に増封され、 次男忠継の領する備前岡山28万石、三男忠雄が領する淡路洲本6万石を合わせ、 86万石を領し「西国将軍」と称せられた。 輝政の死で長子利隆が姫路を継ぐが、1616年33歳で死去。 その後、利隆の子池田幸隆(後に光政)が継ぐが、幼少のため翌年鳥取へ国替になった。 一方岡山の忠継は、1615年「毒まんじゅう事件※2」で急死。 弟の忠雄が岡山を継ぐが、1632年31歳で死去。長子の光仲が3歳のため、鳥取に移された。 従兄弟の池田光政と相互国替えである。こうして鳥取池田家と岡山池田家が同時に立藩した。 光政から8代目の茂政は、最後の将軍徳川慶喜の実弟で池田慶政の娘と結婚し養嗣子となる。 実兄との争いを嫌い消極的な態度を取りとり続けた為、窮地にたたされる。 倒幕戦争が起こってから岡山藩の支藩である鴨方藩から章政を養子に迎え、ようやく戊辰戦争に参加。 池田家は、1632年から1871年の廃藩置県までの約240年間10代にわたり歴代岡山城主をつとめた。
※1 池田輝政の妻糸子は利隆を生んだ後離縁され、後妻には徳川家康の二女富子(督姫)がなった。輝政を引きつけて
泰政(やすまさ)−恒利(つねとし)−恒興(つねおき)−輝政(てるまさ)−利隆(としたか)−光政(みつまさ)−綱政(つなまさ)− | ||||||
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本多家 | ||||||
![]() 「立ち葵」のルーツは、京都賀茂神社の神草である「フタバアオイ」からといわれている。 本多家の先祖中務光秀が、賀茂神社の社職であったことから、本多家の家紋にしたといわれてる。 本多家は、本多助時のころに松平泰親に仕え、代々松平(徳川)家の忠実な家臣だった。 本多忠勝は、徳川四天王の1人。徳川幕府の設立に力を尽くす。 徳川氏勢力が確立した1601年、伊勢桑名(現・三重県)10万石を与えられ、 1610年忠勝死去のため忠政が受け継ぎ、1617年播磨姫路藩15万石に転じ、 本多忠政が姫路城主となる。 忠政の正室は、家康の長男・信康と織田信長の娘・徳姫との間に生まれた熊姫。 嫡子忠刻のもとには、大坂落城後、救出された千姫(徳川秀忠の長女)が再嫁している。 つまり、父子共に家康の孫娘をもらったことになる。 姫路城に入った忠政は、西の守りを固める為に姫山の西の鷺山に西の丸を造り、 三の丸高台には、自分が住む館や忠刻と千姫夫婦が住む「武蔵野御殿」と呼ばれる館を建てた。 その北に向御屋敷(むこうおやしき)を建て、内堀の外には東御屋敷や西御屋敷を建てた。 (西御屋敷跡に今の好古園がある。) 残念ながら、この時建てた建物のうち千姫のために建てた化粧櫓や長局以外は残っていない。 他にも忠政は、城の西側の石垣のかさ上げや門や堀を整備するなどし、今の姫路城の姿をほぼ完成させた。 また忠政は、城の西を流れ外堀の役目もしていた川(船場川)を整備し、飾磨津との間を船や筏で物資を運べるようにした。 これにより、材木町など川筋の町が栄え、城下町の発展に大きな役割を果たした。 忠政没後は、嫡子忠刻が31歳で亡くなっていた為、次男政朝が城主となる。 政朝が亡くなった後、政朝の実子であった政長が6歳で幼少のため一時従兄弟の政勝が継ぐ。その後大和郡山へ移封。 政勝は、政長でなく実子の政利を世継ぎにした為、政長と政利との間に争いが起こった。 結局幕府により政長9万石、政利6万石とし落着した(「96騒動」)。 1679年政長が死去し、その養子の忠国(6代目)は15万石で奥州福島、ふたたび姫路へ。 7代目忠孝から転封がつづき、1769年11代忠粛が岡崎5万石に移り、1871年の廃藩置県まで動かなかった。 その間何代も他家から入ってきた者が家名を継いでいる。
忠勝(ただかつ)−忠政(ただまさ)−政朝(ただとも)−政勝(まさかつ)−政長(まさなが)−忠国(ただくに)−忠孝(ただたか)− | ||||||
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榊原家 | ||||||
![]() 伊勢外宮に奉仕していた藤原秀郷流佐藤氏族の榊原氏の牛車は天下一品で、この車で外宮に奉献品を運搬した。 これにあやかり榊原家の家紋に「源氏車」を用いた。特に榊原家のものは「榊原源氏車」とよばれる。 榊原家は、徳川四天王のひとり榊原康政を祖とする。 榊原康政は、松平宗家に対抗した酒井忠尚の小姓だった。13歳の時に初めて家康側近として仕え、 三河一向一揆で初陣し、その功が認められ家康の諱の一字を与えられた。1564年の吉田城攻めには旗本の先手となり、 以後諸合戦でも必ず先鋒とされた。 3代榊原忠次の時に上州館林10万石から3万石加増のうえ奥州白河に転じ、さらに姫路に移り 15万石となる。5代榊原政倫がまだ幼少のため越後村上へ移封。6代榊原政邦が再び姫路へ移封。 以後姫路城主として、7代榊原政祐、8代榊原政岑、9代榊原政永と続く。 榊原家歴代のうち幕閣に列して名を成した者は3代忠次ただ1人である。 彼は秀忠、家光、家綱3代に仕え、1代松平姓を賜わり、保科正之を助けて治績をあげた。 これと反対に風流大名として知られたは、8代榊原政岑。 榊原政岑は信仰心に厚く、ゆかた祭を始めたことでも知られる心豊かな城主。 しかし、日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかったことに不満を持ち、 酒色におぼれ吉原通いを始めた。そして名妓高尾を落籍、内西屋敷に住まわせた。 これらの行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れ、政岑は糾弾される。 やがて政岑は20代の若さで隠居を命じられ、9代榊原政永が、跡を継ぐが幼少のため越後高田へ移封。 その後、6代にわたり高田城主をつとめ、1871年の廃藩置県を迎えた。
康政(やすまさ)−康勝(やすかつ)−忠次(ただつぐ)−政房(まさふさ)−政倫(まさとも)−政邦(まさくに)−政祐(まさすけ)− | ||||||
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松平家(越前) | ||||||
![]() 巴は、文様紋の代表的なもの。武具の鞆の文様や鞆の形に似ているところから鞆絵となり、 のちに水が渦巻いているのによく似ていたので、巴の字を当てた。 その後、巴紋が弓矢の神である八幡宮の神紋と見なされるようになり、 全国各地の八幡宮で使われたため、神助を受けようとした武士が家紋として用いた。 巴紋は菊桐に次いで多く、種類も極めて広範囲で変化も多い。 松平家(越前)は、結城秀康(徳川家康の次男)の5男直基を祖とする。 直基は、能書家の公家、烏丸光広のもとで和歌を修めたほか狂歌も名手と評された。 直基は、1623年3万石を領し、父結城秀康の領国であった越前勝山城(現・福井県勝山市)の城主となる。 越前大野、出羽山形と移封したあと1648年姫路城主となるが、赴任途中で没する。 子の直矩が遺領を継ぐが、翌年越後村上城に移封となる。 直矩は歌舞伎を愛好したことで知られ、17歳の時から没するまで書き継いだ日記は、 『松平大和守日記』として知られる。 1667年直矩は、再び姫路藩の領主となった。 その後、1681年の越後騒動に連座して閉門減封され、豊後日田を経て陸奥山形、 陸奥白河へ移封。 明矩まで3代に渡り陸奥白河をおさめ、明矩1741年姫路へ入封。 1748年明矩没。松平朝矩、遺領を継ぐが翌年上野前橋へ移封。 前橋城は利根川の浸食で崩壊の危機にさらされており、川越城に移った。 しかし松平家は、度重なる転封による借財と、前橋城復旧の為の負担で疲弊しきっていた。 斉典は、将軍家斉の子斉省を養子に迎えることにより、 播磨姫路への転封を画策するが、失敗。 ついで、酒井家の出羽庄内への転封を画策し、 一度は長岡藩牧野家との三方領地替えが決定されたが、 庄内領民の反対運動や斉省の夭折などで中止となる。 その後、直克の時に町人たちの協力を得て前橋城を再建し、川越城から前橋城に戻った。 直方の時に廃藩置県を迎えた。
直基(なおもと)−直矩(なおのり)−基知(もととも)−明矩(あきのり)−朝矩(とものり)−直恒(なおつね)−直温(なおのぶ)− | ||||||
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松平家(奥平) | ||||||
![]() 沢潟は、水辺に自生する多年草で、葉の形に特徴があり、小さな白花をつける。 古くから文様として用いられ、平安時代に久我氏が車の文様として初めて用い、 のちに家紋として用いられるようになった。 松平家(奥平)の祖である松平忠明は、奥平信昌の4男で母は徳川家康の娘亀姫。 徳川家康の外孫にあたり、特に可愛がられ家康の養子となり、 徳川秀忠の偏諱をもらい松平忠明を名乗った。 1615年、大坂夏の陣での功労が表され、落城の翌日大阪城主となった。 大阪市街地の復興と整備に敏腕を振るい、心斎橋筋を小売商筋として繁栄させたり、 道頓堀に花街や歌舞伎などの町人文化を生み出させた。 1619年12万石で郡山城主となった後、1639年15万石で姫路城へ。 1644年忠明死去のため子忠弘が遺領を継ぐ。 1648年忠弘、羽州山形へ移封、その後下野宇都宮、陸奥白河へ。 1687年忠弘が病にかかると継嗣問題と藩内の派閥抗争がからみあい 犠牲者などを出し、1692年家中不取締を理由に閉門処分として、5万石の減転封をうけた。 忠弘の子清照が病弱のため、嫡孫忠雅を嗣子とした。備後福山〜伊勢桑名と移封。 伊勢桑名藩主として7代続いたが、忠堯が突然武蔵忍へ転封。 その後忠敬まで続き1871年の廃藩置県を迎えた。
忠明(ただあきら)−忠弘(ただひろ)−忠雅(ただまさ)−忠刻(ただとき)−忠啓(ただひら)−忠功(ただかつ)−忠和(ただとも)− | ||||||
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酒井家 | ||||||
![]() 片喰はカタバミ科の多年草で、葉形は3枚のハート形。 和名は「傍食(かたばみ)」で、葉の一方が欠けているように見えることから名づけられた。 全世界に分布し、春から秋にかけて黄色の小さな花が咲く。 茎は細長く地上に這い、繁殖力が強い。 家紋として用いられたのは、繁殖力の強さと家運をかけたといわれるが、定かではない。 片喰紋は、公家・大名家なども多く用い、幕臣では約160の家が用いて我が国の代表的な家紋となった。 剣片喰紋が多く用いられている。 ※酒井家は、もともと葵紋だったが、松平長親(徳川家康より4代前)が酒井氏の武功にあやかり葵紋を所望 自家の家紋とし、代わりに酒井氏は葵紋に似ている片喰紋になったとある。「三河後風土記より」 酒井家は、松平家に仕えた酒井広親の二男家忠の流を祖とする。 家忠から数えて5代目の酒井正親は、松平清康・広忠・家康3代に仕えた譜代の家臣で、 雅楽頭(うたのかみ)を官名としたことから雅楽頭系酒井氏と呼ばれている。 酒井正親は、家康が駿府へ人質として送られた時に同行、 1561年西条城(後に西尾城と改め)を攻略し、与えられて城主となる。 松平宗家譜代家臣初めての城主として知られる。 重忠は、家康の関東移封に従い、1601年に前橋藩3万3千石を与えられた。 忠世は、幼時から徳川家康に仕え徳川家康の関東入国の際に徳川秀忠の家老となる。 徳川秀忠が2代将軍となり、権力は一段と増し、 家康の命により青山忠俊、土井利勝とともに家光の傳役(もりやく)になった。 1601年、5千石を加増され上野国那波郡領主となる。 その後4万石の加増があり、1617年父の遺領を継ぎ上野国厩橋城主となり、合計8万5千石となった。 1605年から1634年の間老中をつとめたが、江戸城出火事件の責を負って辞任。 しかしその後大老格として政務に復帰した。 忠行の代にも加増があり、1636年父の遺領を継ぎ15万石となるが、同年没。 代忠清が継ぐ。1666年に忠清大老就任。 4代目将軍家綱の補佐役だが、実際は病身の家綱に代わり権力をふるった。 江戸城大手門の下馬札前に屋敷があった為「下馬将軍」の異名を得た。 しかし、1680年家綱の後継者問題で堀田正俊に敗れ、失脚。翌年没する。 忠挙から代々遺領を継ぎ前橋城主をつとめ、忠恭の代で姫路城に入城。 以後酒井家の子孫が9代100年間にわたり姫路城主となり、版籍奉還となった。
重忠(しげただ)−忠世(ただよ)−忠行(ただゆき)−忠清(ただきよ)−忠挙(ただたか)−忠相(ただみ)−親愛(ちかよし)− | ||||||
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